中性色の服ばかり着ている

タイプミスしたら即終了

221215 安住のサブスクを求めて

俺は音楽がないと外に出ることができない筋金入りのイヤホンマンだ。
中学生のときにもらった父親のお下がりのGREENHOUSEのちっちゃいUSBプレイヤーに始まり、ウォークマンを経て、今はスマホでサブスクの音楽を聴いている。そしてそのサブスクも、AWA→LINE MUSIC→Apple Music→SpotifyApple Musicと乗り替えてきて、今年いっぱいでまたApple Musicから乗り換えようと考えている流浪の民です。
サブスクはとても便利なサービスだ。普段は聴かない曲でもふと思い立って検索したらすぐ出てくるし、自分では知り得なかったような曲をレコメンドしてくれたりする。その一方で、手持ちのデータを再生する従来の音楽再生アプリと比べて不便だなーと思うところもある。
まず、配信されてない曲がある。当たり前だろ、と思う方も多いかもしれない。これを不便に感じるのかどうかはかなり個人差があるだろうが、俺はかなり残念に思っている方だ。今実家に眠っているCDの半分以上はどのサブスクでも配信されてないんじゃないか。あとさ、ガキの頃はピアプロとかmuzieとかあったよね……ボカロ曲の要りもしないカラオケバージョンも一緒に落として、これはこれでいいじゃんとか謎の悦に浸ったりとかね……。

もちろん、配信されてない曲をサブスクのアプリ上で聴く手段が全くないわけではない。だいたいどのサービスでもローカルファイルを読み込んで、配信されてる曲と同じように再生したりプレイリストに入れることができるようになってはいる。ただやっぱり読み込むという一手間がある以上、使い勝手は配信されてる曲と同じようにはいかない。Apple Musicでは一体何を間違えたのか、amazarashiで唯一配信されてない0.6という特に思い入れのあるEPだけ何度読み込んでも再生してくれなくなったし、Spotifyはローカルファイルを読み込んではくれるものの、配信されている曲と同じようにアルバム単位では表示してくれないため、アルバムごとにプレイリストを作って管理する必要がある。Spotify premiumを解約したのはたしか一年以上前なのだが、最近再びログインしてこの点がまだ改善されていなかったのでガックリきてしまった。こういうちょっとしたスリップダメージがストレスとなり、カッとなって解約しては乗り替えてを繰り返しているのである。

そして、前述の内容とも関連する話になるがサービスによってUIが違いすぎる。WindowsiTunesを開いたときの使いづらさったらない。フォント変だしもっさりしてるし……Macを買えということなのだろう。しかしこれはこれで慣れてしまっているし、スマホiPhoneなのでそっちでの使い勝手は別に普通なのがかえって腹立つ。書きながら思ったけど、こうしてムカつきながらも使い続けてしまう俺みたいな奴がいっぱいいて成り立ってるサービスじゃないか? これ。

年末になると、SpotifyApple Musicで一年間のうちによく聴いた曲をSNSでシェアしているのを見るようになる。正直に言う。俺もやりて〜〜〜〜〜〜〜のそれ! でもサブスクを転々としてるせいで十分なデータがある年が今まで一度も来てないの。今年はきっとできるはずと思っていたのだが、Apple Musicで自動生成される年間トップ100のプレイリストはどうも純粋な再生回数以外のデータによってできているらしく、どう考えても2桁は聴いていない曲がどんどん入ってきて、違う!!となってしまう。今年はトップ100の他に、こんなアーティストやプレイリストをよく聴いたんですよ〜♪ という小粋な映像というかリールも勝手に作ってくれたんだけど、それも全然違いすぎて楽しめなかった。というわけで納得いく部分だけここで晒します。誰も興味ないだろうけどとにかく世に出して記録しておきたいという事物が生きていく中でひとつならずある。

Apple Musicを解約したあと、どれに乗り換えようかな。やっぱSpotifyかな。とにかくローカルファイルの使い勝手の良さを追求してたけどどれも似たり寄ったりだし、普段から聴けないと困るポップン弐寺のサントラたちはいっそ別の媒体で持ち歩くぐらいの方が結局便利なんじゃないか。Googleドライブとか。それはそれで寂しいが今のところそうするしかない。
思えばデータだけで管理してたころは、同じ時期によく聴いてた曲同士は、ジャンルやアーティストにかかわらずどこか連帯感を帯びた存在に感じていた。サブスクに加入してからはその連帯感は薄れてしまって、配信されてる曲たちとそうでない曲たちの間には溝を感じるようになってしまった。その二者を最も隔たりなく扱えるのはApple Musicだけど、0.6がないんじゃ意味がない。ベストアルバムに収録されたりアレンジバージョンだけは配信されてる曲もあるけど、やっぱりあのメンツじゃないと駄目だ。来年の末には俺もSpotifyの振り返りを投稿するだろう。そいつらの中にムカデやMind Mappingや繚乱ヒットチャートは入っていないだろうが、心はそいつらと一緒だ。いつの日か、また分かり合える日が来ると信じて……

 

221213 名古屋行ってきた

この前何の脈絡もなく名古屋に行ったときのことを書こうと思ってずっと先延ばしにしていた。こうなってくるともう日記タイトルにいちいち書いているyymmddの意味もあったものではないが、俺は手帳とかをきっちりつけられる人間よりもずっと曖昧な時間の流れの中に生きているのだ。

到着してまず感じたのは、なんか全体的に音量が大きいということだ。駅はとても賑わっていて、人の間を抜けて進むのに苦労した。
13時頃名古屋駅に到着し、早速名古屋城に向かう。一度乗り換えはあるものの非常にアクセスがいい。市役所の近く、都市の真ん中にいきなり時代を感じさせる空間が出現してくるのが不思議に感じられる。考えてみれば大阪城だって全然そうなのだが、知らない街だとよりそう感じるのかもしれない。

天守閣には入ることができなかった。下から見上げて、鳥多すぎるなという感動を存分に味わった。本丸御殿は入ることができた。どこもかしこもピカピカで落ち着かなかった。木のいい匂いが絶えずしていて、結局のところそれが一番印象に残っている。歴史関係のことは一切詳しくなく、大河ドラマも見ないのだが、由緒正しい建物の持つ、ここで色々な言葉が交わされて歴史が作られてきたんだなという独特の緊張感を肌で感じることができた。靴を脱いで上がったときの冷たい感触とか声の響きかたとか、小さい頃に入った公民館みたいだと思った。敷地内のみやげ屋に入り、ちいかわの限定絵柄の靴下があって迷ったが結局買わなかった。

それから一旦名古屋駅に戻りホテルにチェックインした。いい歳こいて自分でホテルを取るのははじめてでドキドキしたが一切トラブルはなかった。俺が勝手にビビってるだけで、世の中のだいたいのことは係員か画面の指示に従っていれば何とかなるものだ。
フロントで、旅行支援の何かのキャンペーンで対象のお店で使える3000円分のクーポンを渡されて、事前にちゃんと説明を見てなかった俺はえらくびっくりした。旅行代金安くなってるのにまだこんなのもらっていいんですか!?!? 今回はたまたま説明を見てなかったことでサプライズの喜びがあったが、説明を読まずに生きてきたことで多分今までこれ以上に損してきてるんだろうなと思って反省した。
荷物を置いて数分アーとしたあと、熱田神宮に向かった。事前に見たホームページには、社務所の空いてる時間が「日没くらいまで」とふんわりとしか書いていなかったので、まあお守りの一つくらい買えるだろと思って余裕こいて行った(上にちゃんと地図見てたら絶対迷わないめちゃくちゃわかりやすい入り口を見逃して10分くらい全然違う道を歩いてた)ら、神宮前駅に着く頃には真っ暗になっていたし普通にバリッゴリに閉店していた。一方で、お参りをする人は多いとはいえないものの途切れることなく出入りしていて、買い物途中や仕事帰りっぽい地元と思しき人がほとんどだったのが印象的だった。俺みたいなマヌケを除いて普通の観光客は日のあるうちに来るだろうから当たり前っちゃ当たり前なのだが。思えば今まで住んでたどの場所も2駅以内の範囲には神社仏閣は一個はあったし、初詣に行くのがなんとなく当たり前になっている。信心を持たない俺の生活には直接関わり合うことはないように思えても、やっぱり人が住む街には必要な施設なんだなと思った。自分も手水とお参りをして、境内を散策した。脇道とか色々入りながら歩いてたら、闇の中に現れたトイレを見て根津神社のトイレを思い出して、夜に神社のトイレを見るという経験が他にそれしかないから思い出したというだけなんだろうけど、根津神社の近くに住んでたときも夜中にアーってなってよく一人で境内をぶらぶらしてたなと思い出した。夜の神社はなんか落ち着くから好きだ。少しだけ街の喧騒と離れることができて、でも人の気配がまったくないわけではなく、犬の散歩してる人がいたり、御神木にずーっと祈ってる人がいたり、そういう静かなすれ違いに満ちてるのがいい。おまけに入場料はタダだ。
暗かったのでまともに撮れてる写真が御神木しかない。

夜は名古屋めしが食べられる居酒屋に行き、例のクーポンを使った。なるべくピッタリになるように頼んだつもりだったけどいざ会計してみると普通に1kくらい足出てて笑った。だからちゃんと値段も読めっつってんの。

2日目はトヨタ産業技術記念館に行ったのだがこれがめちゃくちゃすごかった。
とにかく見るものが多いし、機械を実際に動かして見せてくれるスタッフさんもたくさんいた。俺は見ての通りのコミュ障なので自分から動かして動かして!と言いには行かなかったが、集団客の後ろからコソッと見てるだけで面白かった。繊維機械館の最初の方の、紡績の歴史についてのセクションで、綿や毛といった繊維の原料が四角いショーケースにミチミチに詰められて説明とともに展示されているところがあって、うまく違いを言葉にすることはできないのにこれは綿でこれはポリエステルでと視覚情報だけで分かるのが不思議だった。人生において柔らかくてフワフワなものをたくさん見る機会は少しでも多い方がいい。

実際に使われていた機械が所狭しと並んでいる迫力を間近で感じられただけでも行った価値があったと思っている。繊維機械館の最後の方、見学者が来るたびにシャシャシャシャシャ!!!という轟音とともにカラフルなタオルを織っていた機械があって、そこで織られたタオルはちゃんとミュージアムショップで売られたり館内の消毒用アルコールの下に置かれたりしてて、そうでなくてはなと思った。
鞄をロッカーに預け忘れていたため繊維機械館の中程に行くころには肩が終わっていた。なので撮影可の施設にも関わらずこの一枚以外全く写真を撮っていない、もったいないがこれはこれで俺の思い出として大事にしておくことにする。

繊維機械館だけでもうゲップ出るくらいおなかいっぱいなのにまだ半分だ。自動車館の2階からあの大きな機械が並んでいる景色を見たときは、これ全部じっくり見てたら帰りの新幹線に間に合わないんじゃないかと思ってガチで絶望しかけたほどだ。国内で車を作るために最適な素材を探すところから始まり、カーステレオやシートベルトに至るまで、どのようなこだわりでクルマが作られて変化してきたかが丁寧に解説されていて、クルマのことが全く分からない俺でも飽きなかった。展示全体を通して機械が目玉ではあるんだろうけど、だからこそ、それを作る人たちの思いや息遣いが感じられるような工夫がところどころにあったのがよかった。博物館でたまにある、当時の人のサンプルみたいな一色で塗られた等身大の人形みたいなやつがここにもあって、そんなの置かれなくても何に使うかぐらい分かるわと今までは思っていたが、やっぱりあれは必要なものなのかもしれんと考え直した。

その後ノリタケミュージアムに行った。

急に名古屋行きを思い立って調べるまで知らなかった施設なんだけど、かなり面白かった。1・2Fのクラフトセンターは実際に職人さん達が陶器を制作してるのをガラス越しに見れる工房で、妙にはしゃいでる子供が多くて、一切気にせず作業に集中している職人さんすごいなあと思った。毎日やってると嫌でも慣れるんだろうか。
んで3・4Fのミュージアムだ。普段お目にかかれないようなゴージャスな食器がたくさん展示されていて、俺まで金持ちになったような非日常感が楽しかった。壁一面に同じサイズでさまざまな模様のお皿が展示されているところが特によかった。同じサイズの中でそれぞれ違った工夫を凝らした作品がズラッと並んでいるのを見るのは、でかい絵を1枚見るのとはまた違った快感があると思った。だからそれを撮っとけよって話なんですけどね。すいませんね。

企画展で、これって何に使うの?っていう食器だけを集めた展示をやっていたのも面白かった。確かに美術館とか博物館で昔の文化についての展示を見てると、何その用途? みたいな装飾品よくある。今の感覚だと絶対そんな頻繁に使わんやろ……というものでも、それゆえに純粋な芸術品としての存在感とか不思議な愛らしさがある。

クラッカーボウル、ボウルという語感からはいまいち想像できない形をしているがとてもいい。これにココナッツサブレを乗せて仕事中にずっとつまんでいられたらかなり楽しい人生だと思う。

近くにあるショップのノリタケスクエアも見に行った。これまたキラキラツヤツヤで、なんか陶器でできた兜とかあって見ているだけで楽しかった。それにしても360度全方位に割れ物がある場所ってリュックで徘徊するの怖いですね。
これがめっちゃかわいくて相当悩んだのだが、実用性があるわけではないものに3kかぁ~~~と思って結局見送った。代わりに、スープを飲む用のカップをずっと探していて、色もちょうど好みのものがあったのでこっちを買った。

ほどよい厚みで、手触りが気持ちいい。クリアファイルももらった。いいでしょ。今も書きながらスープを飲むでもなく惚れ惚れと眺めている。いい買い物したな。旅行したからといって現地でしか得られない経験や限定品を血眼になって探すより、こういう身の丈に合ったものを地道に発見していく方があるいは良いのかもしれない。
あんかけスパ食べて、おみやげも買って、時間が余ったのでイオンとか行ってた。なんかローカル食品っぽい飲むヨーグルトがあったので買った。地元と違うことといったらその程度であとはチェーンのスーパーの中というのはどこに行ってもあまり変わらないので、安心とまあそうやんな……が同時に来て妙な気持ちになった。全体を通してだが、良くも悪くも平和な旅だったなと思う。電車に乗ってダラダラ歩いて……。次はもっとガラッと環境が変わる場所に行きたいな。

んで新幹線乗って、帰りも来た時と同じように新神戸から神戸までの地下鉄代をケチって歩くわけだが、マップを見てえっちらおっちら歩きつつ、この街のことも全然知らないんだよな、と思う。俺は、旅行は自分にとって「見たことのないもの」を減らすためにするものという意識があって、でもそれ言い出すとこの県だけで一生かかるぞとも思う。
ともあれ東名阪は制覇したので次は札仙広福だ。一人旅の感覚はなんとなく分かったのでもっと遠くへも行ってみたい。もっと自由になりたい。そのためにまた金を稼ぐのだ。

221211 カクテルムズ

所用でカクテルを作った。オリジナルのモクテルだ。

カクテルを作るのってむずすぎる。ありとあらゆることを雰囲気でやってきた俺のような人間には、こういった複合的な要素があって緻密な計算が必要なことは向いてないなと改めて感じた。綺麗なグラデーションを作るということを最優先に材料を揃えて、最終的には禁じ手(かなと最初は思ったけどよく考えたらシロップにだって着色料入ってるわけだし多少は致し方なくね?)の食紅まで投入したけど、イメージでは写真よりもっとはっきり分離できてるはずだった。ただ、いい感じに撮ろうとしていろんな角度からいじり回してたら突然氷が崩れて混ざって、こうなった。そりゃ混ざればグラデーションは自然になる。けどなんか……もっといけそうな気がしたんだよ。マジで。まあ味はおいしかったし、経験としては悪くなかったと思う。あとこれのためにわざわざちゃんとしたグラス注文したのだがこれは結果的に良い選択だった。中身が適当でも、このスンっとしたシルエットの薄いグラスで氷をいっぱい入れて飲むと、ちゃんとしたものを飲んでると脳が錯覚するのだ。こうして形から入るだけ入って生活が向上した気になって中身はいっこうに向上しないのが矜子なんだよな。

文章も料理もなにもかもそうなんだけど、正解が分からない。カクテルを作ること自体、簡単に材料を揃えられる割にハードル高い趣味に感じるのも、種類が多い分こうルールがガチガチにあるんじゃないかと思ってしまっているからかもしれない。カラオケでバイトしてたころはどのカクテルにもきっちりと分量が記載されたレシピがあってそれに従っていればよかったけど、そこから一歩でも出てしまうと全てが間違っているのではないかと思えて立ちすくんでしまう。俺が選んだこの組み合わせだけがたまたま相性の悪い組み合わせなのではないかとか、どれだけ調べても絶対俺の知らない死角に落とし穴があるように思えてならない。すき焼きで白滝と牛肉を並べるなみたいな初見殺しのやつ。←今調べたらわりとこの限りでもないらしい。
この写真も上げるまでに割と葛藤があった。俺には「それはおかしい」と言ってくれる人がほとんどいないので、おかしいのに気づかず全世界に公開してやんの……クスクス……と思われるだけ思われといて俺自身は笑いものにされてることにすら気づかない状況なのかもしれない、と勝手に想像して勝手に嫌な気分になっている。どの分野の何を公開するときにもマジでこの感覚がある。この感覚がなくなる日が来る気がしない。このまま何のプロにもなれずに死んでいくことに恐怖がある。

221209 『地球星人』

本の話です。
ネタバレがあります。

地球星人 | 村田 沙耶香 |本 | 通販 | Amazon

読んでいる間ずっと、というか塾の講師が出てきたくらいからずっとヒリヒリした気持ちで読んでいた。俺にとって、本を読んでヒリヒリするという経験は覚えてないもしくは言語化してないだけで本当は初めてではないのかもしれない。しかしブログという何を書いてもいい白紙が目の前にある今、それを言語化しないでいるのは損失だと思った。
コンビニ人間』を読んだときは、テンポよく進むのと白羽のキャラが強いので、コミカルで爽快な話だと感じたけど、『地球星人』を読んでから再度読んでみるとそれも一面的な感じ方だよなと思った。問題は俺がではなく主人公たちがヒリヒリしていたかどうかだ。『コンビニ人間』の恵子さんは、自分をコンビニというシステムの一部と感じている一方で、ちゃんと就職してパートナーを作りなさいと絶えず押し付けてくる社会に疲れてもいる。恵子さんはすごく合理的な人で、妙な話だがそこに人間らしさを感じる。感情的になる白羽への受け答えも落ち着いている。味のあるものを食べる必要性を感じないからと野菜や肉にほとんど味付けをしないで食べるのはさすがに共感できないけど、そこまで徹底して自分の感覚で生きているからこそ、こういう主人公なんだとすぐに理解して面白く読むことができたんだと思う。
『地球星人』は、奈月さんの小さい頃から始まって、途中で大人になって結婚してからへと時間が飛ぶ。この小さい頃の彼女と世界の間の摩擦の描写がすごくリアルで、私がヒリヒリと形容したのはそこだ。ヒリヒリするのは、無理解な家族や大人たちと絶えず関わらなければいけない当事者が自分だったらと想像するから? 自分の小さいころを思い出すから? ヒリヒリしている俺は、少しでも彼女の内面を慮る言葉が外部から出てきてほしい、彼女はこう思っていたんだと周りが思い知るような出来事が起こってほしいと思っていたが、それは単に小さい頃の自分がそう思っていたのを思い出しただけなのかもしれない。
個人的に姉の存在が見ていて悲しかった。塾のクソ野郎について「あんなに素敵な人に好意を向けられるのは幸せなことなのにそれが分からなかったんだよね」みたいなこと言われるシーンが特に気持ち悪かった。気づいてくれる人がやっと出てきた! からの、なんでそういう考え方に……とガックリ来た。「工場」の一部になった自分の幸せを疑う様子もない姉は、他人に全体重を預けて他人の価値観で幸せになることが本当に当人にとっても幸せなのだろうか? という問いを体現したような存在だと思った。
他人に恋愛感情を持たない者同士が社会をやり過ごすために結婚する、という点では朝井リョウ『正欲』を思い出した。『正欲』のラストも理不尽というか、でも実際自分が子供たちの親だったら100%そう思うだろうし怒るわな……というやりきれなさがあったが、二人の信頼関係がなくなったわけではなくて、そこに希望がある終わり方で好きだった。書いていて思ったが、俺が物語を読んでて希望を感じるのは、主人公に居場所があるかどうかではなく、生き続けるという意志を失っていないということが分かるときかもしれない。この作品のラストが彼女たちにとって救いなのか分からないし、「救い」という言葉自体がかなり地球星人寄りの語彙だなと今入力しながら思った。「工場」の一部にはなれないしなりたいとも思わず、しかし野菜や肉には味をつけて食べたい俺は、共感できるところもできないところもありながら、これらの作品群の主人公たちが持つ「生きる」こと、「ありつづける」ことに対する、本能でもあり理性でもある一貫した意志を確かめながら読んでいて、これからもそれを拠り所にしていくのだと思う。なにがあってもいきのびること。

221207 なあ

思い出して殺したくなることがたくさんある。ほとんどは俺が悪い。だが罪の所在と感情は連動していないし俺という存在の大部分を占める感情は逆ギレというやつ。たとえ自分が悪かったとしても一瞬でも生じた戸惑いや怒りは消せないし一生つきまとう。やり返したかったこと、やれなかった復讐を壊れたレコードのように再生し続ける。普通の人間は「自分が悪いから」という理由で全部忘れて翌日からを何もなかったように生きることができているんだろうか? できてるんだろうな。そうでなければ何十年という年月に耐えられるように人間できていないと思う。人に言いたいことがたくさんある。人に言えずに死んでいくのだろうということもたくさんある。言われた当人は忘れてそうなささいな無神経な言葉を発してしまったことも俺は全部覚えているし夜中に目覚めて死にたいくらい申し訳なくなる。そしてそんな言葉を交わせる相手すら少しずついなくなって逆ギレだけで構成された存在になって耐えきれなくて死ぬんだと思う。なぜいつもこんなにささいなことで怒りを感じてしまうんだろう。怒る人間なのか怒らない人間なのかは、酒と同じように特定の酵素を持ってるかそうでないかで決まっていて努力しても治らないもの、というイメージがずっと漠然とあるけどだからといってこのままでは商売あがったりだ。カウンセリングとか行くべきなのだろうか。なんでわざわざ金払って他人と話さなきゃいけないんだ。気色悪い。世の中酵素を持ってない人間がとことん損をするようにできている。

221204 献カレ…………

今年も献血カレンダーを手に入れることができなかった。悲しい。
年末の風物詩といっても過言ではない、ノベルティのカレンダー。各地の献血ルームでも、11月ごろになるとけんけつちゃんが描かれた卓上カレンダーが配られるらしい。らしいというのは、近畿エリアではそうでないからだ。画像検索すると出てくるカレンダーの写真はだいたい関東か中部か北海道のものだ。2年くらい前からコンスタントに献血をしているがカレンダーをもらったことはない。
いや、くれよ。
何でもスマホで済ます現代っ子だからなければないで生きていけるよ。でも君がくれるなら使うよ。メルカリじゃダメなんだよ。俺が血を流して手に入れたその証が一年間机の上にある、そのことに充足感を覚えたいんだよ。欲しいものほど手に入らない、それも人生ということか。
血眼になってツイッターを検索していると、なぜか京都の献血バスでだけ限定絵柄のものが配布されていることが分かった。早速運行日程表をチェックするも、どの日程も埋まっている。その日が11/24で、プルダウンには11/30までしかなかったので、一週間先までの表示なのだろうと思い、翌朝目を覚ますとすぐ再確認した。やっぱり11/30までだ。ということは、週単位ではなく月単位の表示なのだ。理解すると同時に諦めていた。12/1まで!?いい子で待って!?残ってるわけないわな!?
実際、12/1になって予約ができるようになると同時に、「けんけつちゃんカレンダーをプレゼント」の文言はきれいに消えていた。もしかしたら京都の赤十字社に電話してゴネたらなんとかなったのかもしれない、でも俺そういうの無理なのよ。「はよ帰れや」と思われるのが嫌で閉店ギリギリの店に入ることができないタイプの小心者なのよ。かくして俺は例年のように卓上カレンダーのない2023年を生きることが決まったのであった。

献血グッズに限らず、ノベルティが好きだ。身の回りの日用品にこだわりはほとんどないが、商品や会社のロゴが入ってるものがあると気分が上がる。ブランドって感じの人間じゃないから、逆にノベルティものを多く持っていることが個性になるんじゃないかと思ったりして。仕事場に届く営業のDMにたまにちょっとしたマスクケースとか入ってて嬉しいんだけど、見てないと勝手に捨てられるので常に警戒している。
今欲しいのはコロナバケツ。2年くらい前からずっと狙っており、取り扱っている店舗もすでに複数見つけているのだが、6本の瓶飲料とバケツを持って帰るのが想像するだけでしんどくてずっとここぞというタイミングが来ないでいる。帰りの通勤電車にバケツ持ってる奴が乗ってきたらダルすぎない? 手に持つにも棚に置くにもダルいそのちょうど鞄に入らない形と軽さ。ならAmazonで買えよと思うじゃん? でも通販は通販でさーーーーー頼むものが2つ以上ないと損した気分になるから使いたくないんだよねーーーーー店でいいじゃんてなる。そして無限ループ。いやー、今日はこのブログの名物である「聞かれてもないのにやらない言い訳をダラダラ並べる」を存分に味わえるいい回でしたね。

いやいや、そんなことばかり言っていてはダメだ。年内には店舗にしろ通販にしろちゃんとコロナバケツを手に入れる。そして来年の末にはあの、全国展開しているキャラクターが京都に来た時の例に漏れず舞妓はんの格好をさせられているけんけつちゃんのカレンダーを机上に置いて、部屋に来た人をドン引きさせたい。部屋に呼べるような人がいないのがそもそもの問題なのだが。

221202 コーヒーの話 Part.2

今ローソンで売ってるダルゴナコーヒー、好奇心だけで購入したらうますぎて鬼リピしている。何これ? QuizKnockの須貝さんがなんかずっとかき混ぜてる動画をちょっと見ただけの知識しかないけど、使われてるのは普通のコーヒーと牛乳?なんだよね? それでなんでこんな不思議な味わいになるんだろう。バターのような、コーヒーゼリーにかけたフレッシュのような、乳脂肪のモッタリした口当たりを最初から最後まで堪能できるのだ。これはすごい。逆にこのモッタリと甘さが苦手な人には合わないだろうというのもわかる。ただ俺みたいに油と砂糖大好きな典型的な子供舌の人間には劇薬だと思う。うますぎて爆速でなくなる。自分で作るにはダルすぎる飲食物をこうして手軽に体験できるのはありがたいことですね。期間限定っぽいけどなるべく長くいてほしい。こういう短期的な快楽で生き延びているので。
背伸びして入った今どきの喫茶店でもダルゴナコーヒーを頼んでみたが、そっちはかなり甘ったるさが勝ってバランスを欠いた味に感じてしまった。自分の味覚に合ったものを見つけ出すというだけのことがけっこう難しい。どちらも飲んでて思ったのは、コーヒーが好きな人の求めるコーヒーと甘いものが好きな人が求めるコーヒーはなんか別の存在なんじゃないかということだ。後者はカフェインを摂取しているというよりジュースを飲んでいる感覚というイメージ。ふだん人とコーヒーを飲む機会がまったくないので、自分が前者ではなく後者に属していると気づいたのはつい最近だ。このスタンスが自分でわかっているかどうかは、人生においてかなり重要だと思う。
「ローソン ダルゴナコーヒー」でツイッター検索したら、おいしいと言っている人がいる一方で拒絶反応を示している人もいてそうだよなと思った。変な話だけど、こうした他人の意見を見てはじめて自分はこれが好きなのかもしれないと気づくことがある。この前阪神電車のちょい乗りシートにはじめて座ったときもそんな感じだった。少し座面が高くて立ち座りしやすいという席で、座った瞬間すげえ!快適!と思ってパブサしたら、座りづらいと感じた人の意見もけっこうあって、それを見てはじめて、自分はこれが好きな側の人間なんだ、と発見した。そんな感じ。好きか好きじゃないのかはっきりと意識していない存在はきっとまだまだたくさんあるが、ちゃんと自分の好きなものを選ぶようにしていきたい。安くなってるという理由だけで好きじゃないお菓子を買って好きじゃないなあと思ったりしていたがそういうのももうやめだ。惰性で好きなものを選ばずにいることは、生きる意味の否定ですらあると今では感じる。快を追求してもいいということにこの歳で気づくとはなんと遅い物心の芽生えだろう。無駄にした時間のことばかり気にしても仕方がないので、とりあえず今日を頑張るためにダルゴナコーヒーをまた買った。