中性色の服ばかり着ている

タイプミスしたら即終了

221028 手帳と和解できない

目覚めた瞬間「左足が攣る」という予感が走ったが、気合いで抑制することができた。抑制とかあるんだ。

毎年この時期になると、使いこなせないのに手帳が欲しくなってくる。あのピカピカの高機能手帳を買えば、来年こそは有意義な手帳ライフを送れるんじゃないか……という誘惑に負けそうになる。今年はかなり頑張った方なのだが、それでも6月くらいから書き込みの量ががくっと減った。そもそもタスクの少ない暇人なので書くことがないといってしまえばそれまでなのだが、手帳の機能というのは淡々と予定を書き込むだけにとどまらないはずだ。先へ先へと楽しみな予定を入れていく、心に響いた人の名言を書き留めていくことで人生が輝く……アジェンディスト(手帳術を伝道する人のことをそう呼ぶらしい)たちはそう言う。
手帳術に関する本や雑誌を見ると、こんな風にかわいくデコったり目標をわかりやすく可視化した手帳を持っていると毎日開くのが楽しいだろうな、と思う。しかし字が汚くて絵心もない自分には絶対無理だとも思う。こういう本や特集に晒せるような手帳を書いている人はみんな字がきれいだし、達筆というのではなくても、なんというか、外にちゃんと出せる文字をみんな書いている、と感じるのだ。私の字は人生の蓄積みたいなものがない、ヒョロヒョロした子供の字なので見せるのが恥ずかしい。自分の書く文字に劣等感を感じていたのは、思えば小学校くらいのときからずっとだった。周りの子が書く女の子女の子した丸文字やとめはねのしっかりした硬筆の字を見るたびに、自分にはそういうセンスがないんだ、と感じた。センスというのは文字だけでなく、ノートや手帳をどう構築していくのかという全体の話でもある。シールやマーカーを駆使してかわいくデコるのか、きっちりとシステマチックに整理して書くのか、そのどちらに属したいのか分からないままこの年になってしまったという感じだ。かわいい文具やシールを見ると心動かされるが、それを使いこなすだけの能力はない。こういう中途半端でぐうたらな人間に向けた手帳術はないものだろうか。
手帳術についての本を見ていると、大きく二つの派閥があることに気づいた。それはその日起きたネガティブなことを書き残さない派と残す派だ。見返すたびに嫌な気分になるのだから嫌なことは書かなくてもいいだろうと思う派だが、デトックスとして良いことも悪いことも全て書き出すという残す派の言い分も、自分にはマッチしないにせよ一理あると思った。デトックスという言葉、本来の意味を超えて無条件でなんか良いことのように思えてきているのが怖い。